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検査室の中で

細菌や黴を培養する仕事をしていた。生産した食品に食中毒菌が付着していないか、またその生産ロットの腐敗の進行の塩梅を調べるためだった。

作りたての寒天培地はつるりと綺麗なのに、数日インキュベーターにおいたシャーレの中では様々な細菌や黴が病気のような模様を千差万別に作り出していて、私は発疹のように露見した細菌を数えたり観察をして、それが終わるとシャーレごと棄てた。菌をアナログに数えながら、静かに過ぎてゆく午後が嫌いじゃなかった。

清潔感のある検査室には白衣を着た私一人で、普通に黙々と仕事はしているけれど、そこは自分のスペースで、なんとなく心に自由があって、喧騒も遠かった。

工場にはしょっちゅう幽霊に纏わる話があったように思う。思えば自分から積極的にその手の話を収集しにいっていたからかもしれない。社内での霊体験談をもつ上司たちも少なくなかったし、うちの会社が借りるずっと以前に飛び降りがあったらしい、とか、ここに井戸があったのを埋め立ててしまってあるからどうの、とか、短期バイトの男の子があそことあそことあそことあそこにぼーっとした作業着のおじさんがいつもいるんですよと教えてくれたりもした。そんなにいるの、何人いるのと聞くと、常時4〜5人はいるとのことだった。

私は検査業務の他、工場を消毒する業務もあったので、繁忙期にはまだ誰も出社していないような薄暗い早朝から、そんな現場を一人でアルコール除菌して回っていた。幽霊が見えたら嫌なのでひょっとこの顔真似をして踊りながら作業をした。誰もいないから全力だった。馬鹿馬鹿しい女には幽霊は近づいてこないという確信があった。万が一幽霊が出たらアルコールを吹き掛けるつもりだったけれど(ファブリーズが除霊に効くと見たことがあるので除菌用アルコールも効く気がした)、見えたことはなかった。そういえば私はなぜか新しいバイト先や職場で霊感がある新人らしいという噂がほぼ必ず流れるのだけど、そんなことは一言も言っていないし、大体幽霊なんか生まれてこのかた一度も見たことがないので本当に不思議。でも信じていない訳ではないし、怖いので、短期バイト君が教えてくれた場所はいつも特に念入りに除菌した。

ふと、短い引き継ぎの時間の中で苦々しい顔をしながら、ここの人間関係には気をつけた方がいいと忠告してくれた前任の彼も、きっと検査室で一人の時はなんとなく落ち着いたのだろうと思ったし、そんな瞬間を今でも思い出すことはあるだろうかと考えた。人間関係に疲れながら一人静かに検査している彼がそこにまだいる気がした。

私も時々検査室のことを思い出す。考えている間に私もあの部屋にいるんじゃないかという気がしてくる。幽霊が住み着きやすい工場だから、私の残像を出没させるのも容易な気がした。